「試し行動」をご存知だろうか。
相手の反応を試すためにあえて悪いことをしてみるといった行動のことを言います。
子どもに多い、と本や教科書には書いてあります。
家庭に問題のある子が親の関心を引くために・・・とか、児童養護施設の子が・・・とか、いわゆる「非行」に発展する・・・とか。
試し行動される側からすれば「なんでこんなことするの?!」と疲労困憊怒り心頭だろう。
そんでもって本や教科書には「子どもたちを愛情をもって受け止めてあげることが、試し行動には大事だ」とか書いてある。
乾いた笑いが思わず出てしまう。
愛情をもって受け止めるって、なんぞや。それじゃあまるで今までは愛情が足りなかったみたいじゃないか。
「子どもに多い」と書きましたが、じゃあ大人になったら試し行動はなくなるかといえば、そういうことでもないような気がします。
というのは、年を重ねて、試し行動にもレパートリーが増えて、わかりにくく見えにくくなると思うからです。
「誰かが自分のことを見ている」と感じるための、行動。
具合が悪くなってみる?勉強やスポーツ頑張って1番になってみる?目立つことしてみる?
「私のことを見て!」という気持ちが起源でも、結果的に勉強やスポーツで結果を残したり、成果や技能を得られたら、結果オーライだったり。
・・・前置きが長くなりました。
今日は、私自身の「ネガティブ」な話です。
前にも書きましたが、私のキャッチコピーは「ネガティブとポジティブがせめぎあってアクティブしている人」
ブログを読んでいるみなさまは、主に私のポジティブな側面を見ていらっしゃいますので
本当にネガティブなの?とか、言ってるだけじゃね?と思う方も多いと思います。
実際そうなのかもしれません。
私は大学の学部時代には、社会福祉を専攻し、「ペーパー」ですが社会福祉士と精神保健福祉士を取得しているため、世間一般の「普通」にちょびっと毛が生えたぐらいだけ、「社会福祉」の観点から「支援」を考えることができると自負しています。
社会福祉士と精神保健福祉士ってなんぞや、って思う人も多いと思いますが、いわゆる「ソーシャルワーカー」(以下ワーカー)、もっと言えば「困ってる人を助けるためになんでもやっちゃう屋さん」です。働く場所によって、法律に関することも、保険のことも、家探しも、身の回りのお世話も、なんでもやります。
ワーカーが支援をする方々のことを「クライアント」と呼んだりします、かっこいいですね。←
私はクライアントでもあります。
変な話です。私はワーカー、支援者として教育を受け、国家資格を所持していますが、同時に支援を必要としている者でもあります。
それゆえ、私は常々自分の「ネガティブ」を、支援者の視点と、当事者の視点から、見たり考えたりしています。
私は、支援者から見て、とても素直で、とてもやっかいなクライアントです。
明るくて、一応真面目で、よく人と話をするし、社会的にマズイことは今のところしてないし、言われたことは守る。
そして、それらを表面的ではなく従順に行っている。
これも本当の私です。
根暗で、頑固で、本当に言いたいことが言えなくて、表に出したらマズイことを隠し続けて、どんなに人から良いことを言われてもそれを信じることができない
これも、本当の私です。
いつもはポジティブ面が前に出てますが
時々ネガティブ面が一歩前に出てしまう。
よく話すし、文書書いたり絵を描いたりするのが好きなのは事実ですが
本当に言いたいことに限って言葉にできない。そして、それを誰にも気づいてもらえない。
「助けて」という、たった一言が言えない。
私の周りの人も、「ネガティブ」な一面を持っていることは知っていて、「困った時は言ってね」と言ってくださる。本当に嬉しいしありがたい気持ちでいっぱいになる反面、それが言えるならば今頃こんな風になってないですよと吐き棄てたくなる。言わないけど。
じゃあ助けてほしい時、どうするか。
気づいてほしい一心で、「試し行動」をする。
超回りくどい。気づいてほしいのに試し行動だと気づかれないように必死で隠す。そうやって自分のことを見てくれているか振るいにかけている。当然、誰も気づかない。
あるいは、この人になら助けてって言えるかもしれない、と思った暁には
やっぱり気づいてもらえなくて
助けてほしいように見えないので「問題を大きくするな」とか言われたり
自分が求めていたものを得られなくて
仕方ない当然だと思う反面怒りみたいなものを感じて、その怒りは相手への怒りじゃなくて「がっかりしてんなよそうなって当然だ期待した自分が悪い」というものだったりする
助けてほしいけど、助けてもらえない。自分には誰かに助けてもらう力すらないのである。
時々そんな絶望感と孤独感にのまれてしまう。
わかっているのだ、自分の思った通りに助けてもらえないこと、自分でもどうすればいいのかわからないのに相手がどうかしてくれるわけがないこと
私はクライアントでワーカー。
「助けてほしい」気持ちも、それをうまく言葉に言えない気持ちも、助けてくれる人を信じたいのに何故か怖くて近づけなくなってしまう気持ちも。
そういう人を「助けたい」と思う気持ちも、でも何をしていいかわからない気持ちも、どうしてあげることもできない気持ちも。
どちらもわかる。
そして今だにどうすればいいかわからない。
とりあえずは、人に期待しすぎないこと、そして「適切に」ヘルプを求めること
を練習中ですが、難しいですね。
自分でなんとかするしかないのです。
魔法のようになんとかなることも、スーパーマンみたいな人が現れることも、ないし、それを期待しているうちは何も変わらない。
世の中は白黒はっきりしてない。
助けてほしいとそうでないひととか
問題があるとかないとか
幸せかどうかとか平和かどうかとか
見ただけで、考えただけでわかるものではない。
何かをすれば完璧にわかるというものでもない。
そういう限界を、常に頭に。
常に心に。
先日、久しぶりにパニックを起こして、自分の社会性のなさに嫌気がさして、思わず書いてしまった。
(追伸・この記事はFacebookにもツイッターにも、私はどこにもシェアしていません。これもひとつの試し行動だったりします。笑)