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ちるえさんの自由帳

1年間休学してタイ山奥のNGOでボランティアをしたトビタテ院生の日々と頭の中とお絵かき

支援やめました。その代わり、お湯を沸かします。

ハッピーバレンタイン

たくさんお菓子もらいました。

 

タイは女から男からみたいなことはなく、そしてホワイトデーも存在しないらしいです。笑

 

今日は久しぶりにリーパー村の子どもに会いました。

元気そうで何より。

私自身、子どもに献身的なタイプではなく、少し年上のともだちみたいな感覚なので、

偉そうなことは言えないし、言わないように気をつける。。。。

 

久しぶりにカンボジアを旅行していた時の写真を眺めていたら、一層背筋が伸びた。

 

カンボジアで感じた違和感。不協和音を聞いているような、落ちつかなさ。

それはカンボジアが他の国や機関から「支援(良いこと)をしている」という自己満足に浸るための道具のように扱われ、当人たちもそれがさも当然のように慣れてしまっている、そんな印象を受けたことに端を発している気がする。

 

あくまでたった1週間の旅行で感じたことだ。カンボジアのこととして語るには、あまりにもサンプルが足りなすぎる。

しかし実際私がそう感じたことも事実だった。自分の心が吐露したことには嘘をつけない。そしてつかない主義だ。

 

そこから学んだことは、私の「支援観」とは違うな、ということである。

あくまで私の主観の問題だ。

もはや「支援」なんて言葉を使うのもおこがましい気がしてならないのだが、便宜上使うことにする。

 

自分の気持ちいい支援というのは、なんとも気色悪い。

しばしば見かけるのだが、無自覚らしい様子でさらに残念な気持ちになる。

そこでは対象者はしばしば置いてけぼりにされる。なのに「あなたのため」とか言い出したりするから厄介だ。

結局巡りに巡って自分のためだろ、と思うのだが、「あなたのため」という言葉に対し「そうか私のためか・・・」と正当化しようとしてしまう人もいるので、これまた厄介なのである。そうなってしまったらスパイラルはもう始まっている。

 

私自身、ソーシャルワーカーの養成課程上うんざりする程「支援」という言葉を聞き、考えさせられてきた。

そして自身もたびたび支援を受けてきた。

 

今は、支援という言葉を極力使うのを止めた。

世の中で口にされる「支援」と私の感覚には齟齬があるように思うからだ。

 

「おー、ひさしぶり」「元気にしてるの?」

「そうなのかー」

 

そんな言葉しか出てこない。それが全てだ。

大学で勉強しようが、研究しようが、国家試験に合格しようが、

今の私にはそれが全てなのだ。そして、十分であるとも感じている。

 

背伸びをして、手を伸ばしておきながら、結局どうにもならないのは

お腹が空いている人の目の前で食べ物をちらつかせておしまいなのと同じだ。生殺しだ。期待させておいて突き落とすのは、何もしないことよりも残酷なのだ。

 

支援はできないんですが、一緒にお茶やコーヒー飲んだり、ご飯食べたり、お菓子たべたりはできます。そんで他愛もない話をするのは得意です。

美味しいジャスミンティーを見つけました。とりあえず、一杯どうですか?

 

 

 

もやもやを言葉にしてみたら、一気にこんなに書いてしまった.笑

勢いの至りなんですが、まぁそれも私の一部ということで、投稿しておくことにします

 

 

 

ハッピーバレンタイン。チョコレートとコーヒーの組み合わせに幸せを感じながら。